「今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいがかかっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」Ⅱコリント3:15

ある人が証しした。主イエスを信じ、救われたのだが、救われる

や「ねばならない」の律法に囚われてしまった。正しい事をしな

ければならないと、頑張って、頑張って律法を行った。自分の

力と努力で信仰生活を送っているので、喜びなどほど遠く、疲

れるばかりだ。しかしこれは良い事、正しい事とばかり、更に自

分の力で突き進んで行く。

 

しかしそうしていると、自分は頑張っていて、そしてそれはつらい

事なので、頑張っていない人を見ると、腹が立って裁いて行く。

心の内では、人を裁きまくり、喜びも平安も無い。先輩クリスチ

ャンと話すと、それは律法主義で、主の愛によるものでない、聖

書の信仰ではないと言われた。

 

しかし主の愛が、恵みがわからない。頭では、行いでなく恵み

による救いが理解できて、理屈ではわかるのだが、恵みと言って

も、行わなければ、としか思えない。その時は、主の愛や恵み

が頭の知識でしかなく、実際には律法だけで、つらいばかりだった。

とうとう疲れ果て、行き詰まってしまい、ギブアップ状態になっ

た。

その時に、「わたしの恵みはあなたに十分である」の言葉が光の

ように臨んで来た。恵みは、あなたに十分注がれているのだよと、

主が語って下さった。そして、主の力は、私の「弱さのうちに現

れる」のだと。弱くて良い、弱いままで良いのだとわかった瞬間、

力が抜けて、解放され、平安に包まれた。

 

自分の知識でなく、御霊がわからせて下さった瞬間だった。「主

の御霊のあるところには自由があります」の通りだった。自由な

喜びを下さった。

 

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肉で行うと、義務で喜び無く、油の切れた状態で、重いばかり

だ。又、成し遂げても、自分を誇り自分の栄光にし、高ぶってし

まう。主に頼る時、御霊に導かれ、生き生きし、軽くて喜びがあ

る。御霊に導かれることを祈って行こう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係