「かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません」Ⅱコリント5:16

信仰生活を送る中で、何だか心がつらくなり、苦しくなる時は、「人

間的な標準」で、自分や状況、周囲の人々を見ているだろうか。パ

ウロは、以前は、主キリストを人間的な標準で見ていたと証しして

いる。王の王、主の主である人類の救い主が、華麗で豪華な王宮で

なく、宿屋の部屋もなく、家畜小屋で生まれる事に、まずつまずく

かも知れない。

 

貧しい大工であるヨセフの息子で、財産も無く、地位も名誉も何も

無い、何の見栄えもない。最期は最も惨めで、悲惨、残虐、辱めの、

極悪人がかかる十字架上での死で、とても受け入れられない。しか

しその「人間的な標準」のメガネをはずした時に、主を知っている

ことの素晴らしさのゆえに、いっさいの事を損と思うようになり、

すべてのものを捨てて、ちりあくたと思うようになった。

 

「人間的な標準」でなく「キリストの標準」で、人を、状況を見て

行く時、どんな人にも、どんな状況にも、主の恵みが見えて行く。

主の光の内に、光を見て行く。主の内に自分を見る。自分で、自分

を見るなら受け入れられないが、主に受け入れられ、愛されている

自分を見て、その自分を受け入れて行く。

 

だれでもキリストの内にあるなら、新しく造られた者だ。古いもの

は過ぎ去った。今、問題があるなら「人間的な標準」で、この世の

価値観で、肉のメガネで、目の前のものを見ていないだろうか。

主の視点のメガネにかけ変えよう。同じ事が、全く違って見えて来

る。様々な負の事態が起きるが、すべてが祝福に結果して行く。

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日々、環境の影響を様々に受ける者だが、主の力によって生かされ

ている。この立場に立ち信仰の目で判断していきたい。光なる主の

元には希望だけがある。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係