「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか」ローマ9:21

ある人が言った「私は、教会に時々出席していたのですが、主を信じるのに十年もかかりました。砕かれなければ、神様はわからないですねえ。それからも砕かれて砕かれて、主を知って来た感じです。自分が変わらないのは、自我が砕かれていないからだと教えられました」。

 

自我が砕かれて行くほどに、主がわかって行く。そのために、主は、どうにも出来ない事態に会わせたり、悩みとなる相手を、目の前に置かれたりする。嫌いな相手であり、ある時は、どうしても我慢ならず、職場を変える。しかし、次に行った先にも同じような相手がいて、悩まされる。「相手を、この状況を何とかして下さい」「相手を変えて下さい」と必死に祈るのだが、祈りが聞かれない。

 

しばらくすると、祈りが聞かれていない事に気づく。そして時を経ながら「これは、もしかして自分の問題か?」と気づいて行く。気づくと、祈りが変えられて、「主よ、私を変えて下さい」となる。そうすると、その祈りは御心に適うので、必ず聞かれて行く。自分の内側が変えられる。へりくだらされ、自我が砕かれて行く。

 

自分が変わるので、同じ状況であっても、自分自身は平安にされる。自我が砕かれるほどに、平安が流れ込み、頭の知識ではなく、主を親しく知って行ける。主は陶器師であり、私たちを砕き、練り、造り上げられる。目の前の痛い、苦しい事態は、自分自身が変えられるために、主から送られて来たものだ。必ず平安へと導かれる。

 

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痛い事も、いつも学ぶように、主には一つも無駄はなく、ご計画があり、御手の中にあり、災いではなく、平安と将来と希望のためのものだと経験させられる。これまでの一つ一つも、平安の落とし所に落とされて来た。まず、ありのままの心の内を祈って行こう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係