「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なの ですから」ルカ19:9

私たちにとって、幸せとはどういうものだろう。自分の思い通りに、自分のしたい事をして生きるなら、幸せで、充実感があると思うだろうか。人生が自分の願い通りになり、自分の好きなようにできれば快適だと思う。しかし、それは勘違いだ。決してそうではない。

 

ザアカイは、富が自分を幸せにしてくれると信じ、富だけを目当てに、取税人のトップにまで昇り詰めた。しかし富は決して幸せをもたらしはしなかった。幾ら富が増しても、心の満たしは無かった。罪を犯しているので、平安無く、心は暗かった。同胞から搾取していたので、同胞からも軽蔑され見下されていた。

 

富を求めて、取税人になったが、孤独な虚しい人生だった。背が低くて、主が見えない。どうしても、何としてでも主に会いたいとの心の渇きは、木にまで登る行為となった。この方なら、真に満たしてくれるのでは。そんな彼に、主は「ザアカイ」と名を呼ばれた。心の渇きを、主を求めるその心の底の思いを、主はご存じだ。慈しんで受け止めて下さる。

 

ザアカイを断罪せず、裁かず、まず丸ごと受け入れられた。「あなたの家に泊まる」ザアカイはどんなに驚き、嬉しかった事だろう。こんな者の家に?ザアカイに心からの悔い改めが来て、救いが与えられ、それは償いとなって具体的な形に表れた。主は求めに答えて下さる。そして愛して下さっているので、目の前の一つ一つの悩み、問題にも、救いを与えて下さる。

 

------------心の渇きに気づけることが感謝だ。満たされない思いを持っていることを隠さずありのまま主に告げることが出来る。「急いで降りて来なさい」と声をかけられたザアカイの喜びを私たちも知っている。